序
- 翻译是和gpt一起讨论得到的。还原了一些原文的文学色彩,但是可能还是有不对的地方。
- 有些原文太过抽象,所以一些翻译的遣词可能有自己的解读。
- 这个页面比较隐蔽,并不能正常搜索到。
- 跳脱的思维,丰富的联想力,对生活和自己内心无比细腻的观察,以及对于遣词造句的斟酌和珍惜————这是我对于馆妹文笔的印象。
- 除了电竞选手,馆还像是一个文学家。阅读他的文字,也能加深对于自己生活的思考。
- 在短平快的文化流行的当代,如此珍惜自己语言丰富性并努力把思想传达给大家的人,同样也是值得珍惜的对象。
- 因为喜欢、想要研究,所以放到了这里。
1
2023年6月29日 12:06
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原文
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翻译
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同胞聲は出づるか
腹から声を出せという割に歌うときには丹田を意識しろと言われ、声にはやる気がのってないといけない、パンなんてなにも塗ってなくたって美味しいじゃない。こんなに不自由なら喋らなくてもいいじゃないと、お姫様はインターネットの海へバターナイフで漕ぎ出してゆくのでした。
お腹の底から声を出すのが苦手です、昔から。ちょっと気を抜いて話すのがイケてるとも思わないし、一生懸命喋っているのだけれど、相手に伝わるようにしっかりハキハキと喋れと言われると委縮してしまいます、なんだか悲しくなってしまうのです、便利ですよねタイピングって。あたしにとっての文明開花は14歳だった気がします。
すっかり梅雨を見逃してしまいました、今年は梅雨なんていなかったんじゃないでしょうか、あたしは少なくとも見ていないので。あら蛙でしょうか、ではということは雨も降っていたのかもしれませんね。もうすぐ夏になってしまうということは、夏がもうすぐ来るということです。うだるようなコンクリートで茹でられても気づかないかもしれませんね。
汗をかくのは嫌いですが汗ばむという単語自体の音は好きだし。ハムが好きなだけだったらどうしよう。でも涼むはもっと良いと思いませんか。むが好きなんでしょうか、でも最近むはそんなに好きじゃないんですよ、あまり彼のいないところで悪く言うもんじゃありませんね。今年はサクレが食べたいなと思っています、頭にレモンを乗せたちょっと軽めな彼に会いたいなと、黄色い車で連れ去ってくれないかしら。
行き過ぎた寒さ暑さは本来伸ばされた個性として褒められるべきもののはずなんですが、いつになっても多様性というのは難しいものです。声を大きく出す必要性から解放されて自分でボリュームを調整できるようになった今、声をはっきりと出す必要なんてなければ、自分の好きな声に魔改造することだってできる、自由で不自由で透明で不透明な世の条理にあきるまであらがっていきたい夏だなと、思っています。
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是否能够发出同胞的声音?
虽然总是被告知要从腹部发声,但每当唱歌时又总被要求注意丹田,声音似乎必须充满力量。
然而,就算什么都不涂抹,面包依旧好吃。如果这一切都那么不自由,那不如干脆不说话好了。
于是,小公主拿起黄油刀,划开了通向互联网的大海。
我一直不擅长从肚子里发声,从小就是。虽然我并不认为懒散地说话就很酷,我一直很努力地表达自己,
可一旦被告知要清晰地说出话语,以便让对方听得懂,我便不由得缩了缩,甚至感到些许悲伤。
打字,真是方便。对我来说,文明的开花,大概是在14岁那年吧。
我完全错过了今年的梅雨季,或者说,今年根本就没有梅雨,至少我没有见到过。
哦,是青蛙吗?那也许说明确实下过雨。
马上就要入夏了,也就是说,炎热的夏天就要到来了。
即便是被炙烤在酷热的水泥地面上,我或许也察觉不到。
我不喜欢出汗,却偏偏喜欢“汗ばむ”这个词的声音。
如果我只是因为喜欢火腿(ハム)而喜欢它,那该怎么办呢?不过,“凉爽”(涼む)这个词不觉得更好吗?
或许我其实喜欢“む”这个音。
可是,最近我对“む”已经没有那么大的喜爱了。毕竟,也不能在他不在的地方说他的坏话吧。
今年,我想吃“萨克雷”冰淇淋,想见那个头顶放着柠檬、稍微清爽一点的他。是不是该开辆黄色的车来带我走呢?
过度的寒冷与酷热,本该作为独特个性的延展受到赞扬,但多样性永远是一项艰难的课题。
如今,已经不再需要大声发声,我能够自由地调节音量。
如果没有必要清晰地表达,我甚至可以把自己的声音“魔改”成我喜欢的样子。
这个夏天,我愿意继续与这世界上自由与不自由、透明与不透明的法则抗争,直到我无法再抗争为止。
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2023年6月29日 12:06
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原文
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同胞聲は出づるか
腹から声を出せという割に歌うときには丹田を意識しろと言われ、声にはやる気がのってないといけない、パンなんてなにも塗ってなくたって美味しいじゃない。こんなに不自由なら喋らなくてもいいじゃないと、お姫様はインターネットの海へバターナイフで漕ぎ出してゆくのでした。
お腹の底から声を出すのが苦手です、昔から。ちょっと気を抜いて話すのがイケてるとも思わないし、一生懸命喋っているのだけれど、相手に伝わるようにしっかりハキハキと喋れと言われると委縮してしまいます、なんだか悲しくなってしまうのです、便利ですよねタイピングって。あたしにとっての文明開花は14歳だった気がします。
すっかり梅雨を見逃してしまいました、今年は梅雨なんていなかったんじゃないでしょうか、あたしは少なくとも見ていないので。あら蛙でしょうか、ではということは雨も降っていたのかもしれませんね。もうすぐ夏になってしまうということは、夏がもうすぐ来るということです。うだるようなコンクリートで茹でられても気づかないかもしれませんね。
汗をかくのは嫌いですが汗ばむという単語自体の音は好きだし。ハムが好きなだけだったらどうしよう。でも涼むはもっと良いと思いませんか。むが好きなんでしょうか、でも最近むはそんなに好きじゃないんですよ、あまり彼のいないところで悪く言うもんじゃありませんね。今年はサクレが食べたいなと思っています、頭にレモンを乗せたちょっと軽めな彼に会いたいなと、黄色い車で連れ去ってくれないかしら。
行き過ぎた寒さ暑さは本来伸ばされた個性として褒められるべきもののはずなんですが、いつになっても多様性というのは難しいものです。声を大きく出す必要性から解放されて自分でボリュームを調整できるようになった今、声をはっきりと出す必要なんてなければ、自分の好きな声に魔改造することだってできる、自由で不自由で透明で不透明な世の条理にあきるまであらがっていきたい夏だなと、思っています。
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翻译
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是否能够发出同胞的声音?
虽然总是被告知要从腹部发声,但每当唱歌时又总被要求注意丹田,声音似乎必须充满力量。
然而,就算什么都不涂抹,面包依旧好吃。如果这一切都那么不自由,那不如干脆不说话好了。
于是,小公主拿起黄油刀,划开了通向互联网的大海。
我一直不擅长从肚子里发声,从小就是。虽然我并不认为懒散地说话就很酷,我一直很努力地表达自己,
可一旦被告知要清晰地说出话语,以便让对方听得懂,我便不由得缩了缩,甚至感到些许悲伤。
打字,真是方便。对我来说,文明的开花,大概是在14岁那年吧。
我完全错过了今年的梅雨季,或者说,今年根本就没有梅雨,至少我没有见到过。
哦,是青蛙吗?那也许说明确实下过雨。
马上就要入夏了,也就是说,炎热的夏天就要到来了。
即便是被炙烤在酷热的水泥地面上,我或许也察觉不到。
我不喜欢出汗,却偏偏喜欢“汗ばむ”这个词的声音。
如果我只是因为喜欢火腿(ハム)而喜欢它,那该怎么办呢?不过,“凉爽”(涼む)这个词不觉得更好吗?
或许我其实喜欢“む”这个音。
可是,最近我对“む”已经没有那么大的喜爱了。毕竟,也不能在他不在的地方说他的坏话吧。
今年,我想吃“萨克雷”冰淇淋,想见那个头顶放着柠檬、稍微清爽一点的他。是不是该开辆黄色的车来带我走呢?
过度的寒冷与酷热,本该作为独特个性的延展受到赞扬,但多样性永远是一项艰难的课题。
如今,已经不再需要大声发声,我能够自由地调节音量。
如果没有必要清晰地表达,我甚至可以把自己的声音“魔改”成我喜欢的样子。
这个夏天,我愿意继续与这世界上自由与不自由、透明与不透明的法则抗争,直到我无法再抗争为止。
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“汗ばむ”(微微出汗)。日语中“ばむ”是动词“变得...”的语法形式,这个发音给人一种轻柔、逐渐的感觉。
“む”在日语中是一个常见的音节,带有某种温和、闭合的感觉。许多日语词汇中都带有“む”,如“夢(梦)”、“無(无)”等。这个音通常给人一种轻柔的、低沉的感觉,似乎有时会被用来表示某种内敛或复杂的情感。
2
2023年8月17日 01:30
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原文
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翻译
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陽の光で目覚める朝は描画だと思う
偶発的に早起きできてしまったときになんで目が覚めちゃったのだろうかなどと思います。本質的には得をしているはずなのに、十分寝れなかったのではという不安が頭をよぎり早起きさえもポジティブに捉えられない自分に頭がさめざめしてしまう朝なのです、こんばんは、首からつま先まで暑いですね。
衆目に晒されるのも常に誰かと比較されるのもその対処として自信を担ぐことも、基礎代謝が増えるなと日々思います、あぐらをかいて祈っていてもカロリーは空から降ってこないし、外を歩けば病は風に乗って来るし、身体中の細胞は泡沫の日々を過ごすし、すべて光合成で賄えるなら良かったのですが。ほとほと人力で補おうと休日、喫茶店に行くなどすると時間の流れが体感と違うせいか、いてもたってもいられなくなるのです、心地良いはずの店内のラウドネス、やはり街道通り道、喧噪でしか満たされないラップセンス。
精神を安定させるために定期的に本屋に行くのですが、気になった本を数冊手に取って持って見て回っていて、その本屋さん独自のオススメコーナーに自分の頭の既読棚にある本が置いてあると嬉しくなる反面、それらのあらすじや感想が鮮明に出てこないとき、今から向き合うであろう本に目をやり、やはり自分にはもったいないのではないかと思ってしまう。それを振り切って本を買うにはエネルギーとほんの少しの自尊心が必要なのです。得手不得手といいますが、本を見るのは得手、本を買うのは不得手にあたります。
エモいは形としてありうるのでしょうか、あるとしたら固形物なのでしょうか。メロンソーダやレトロな喫茶店はその重圧に耐えきれるのでしょうか。もしこのままエモが増えていって、既出のエモであふれてしまったとしても、エモいの市場価値は下がらないのでしょうか、感情ガチャでエモがアンコモンになっても限定版イラストなら高値で取引されるのでしょうか。
匿名ラジオ/#221「今更でごめん!結局『エモい』って何なの!?」 - YouTube
あたしが好きなラジオです、よく寝るときに流しています。
ふと書いていた日記を読み返していたのですが、最近めっぽう自分への鼓舞が多いなと思います。紙面に文字を整えてその力で自己肯定を試みる道中で挫折して、精いっぱいの声援の投球、ワンバウンドの跡が散見されて、自己補完がすごく歪だなと思うのです。
息を少しずつ吐きだしてプールの底に沈んでいって、屈折でぼやけて見える外の光を眺めたことがありますか。つぼを少しずつ割っていって、どこをどこまで割ったら形が崩れ落ちるか試したことがありますか。部屋の明かりをゼロにして、暗闇に目が慣れたら自分の普段過ごす部屋に何が見えるか試してみたことがありますか。全てとても綺麗なのです、でもこれらに名前を付けられることも甲乙良否定められることもどうにかいたくいとうございます。これらは美よりも悲哀に近いのですが号哭は角立っているでしょうか。
何かできそうな夜更かし、脳内紹介お住まいツアー、思考は潮解、能才足らず当社比早退です。
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我认为,在阳光下醒来的早晨就像是一幅画
每当我偶然早起时,我总会想,为什么自己会醒来呢?
虽然从本质上来说我应该是得到了好处,但却总担心自己没睡够,这种不安让我无法积极看待早起。
每当遇到这样的早晨,我都会感到有些沮丧。
晚上好,感觉从脖子到脚趾都很热呢。
暴露在公众的视线下,不断地与别人比较,还要自信地应对,我感觉自己的基础代谢每天都在增加。
即使盘腿坐着祈祷,也不会有卡路里从天而降;如果走出门,疾病也可能随风而来;身体每一个细胞都在度过如泡沫般的日子。
如果一切都能通过光合作用来维持,那该多好啊。
当我周末去一家咖啡店,试图通过人力来弥补这一切时,时间的流逝似乎与我的感受不同,让我变得坐立不安。
原本应该是舒适的店内,却被大声的噪音充斥。
街道的喧嚣,似乎只能用这种‘快节奏’的方式来满足我。
为了保持精神的平衡,我定期去书店。在那里,我会挑选几本自己感兴趣的书,拿着它们四处转悠。
每当我看到书店的推荐角落里,自己曾经读过的书摆在那里时,心中总会涌上一阵喜悦。但当我无法清晰回忆起这些书的情节和感想时,我又会开始犹豫:是不是这些书对我来说太奢侈了?
要克服这些犹豫,最终把书买下,我需要一点能量和一些自尊心。
所谓擅长和不擅长,我擅长看书,但不擅长买书。
那么,‘情感’(エモい)是能被形容为一种具体的形态吗?如果可以,它会是一种固体吗?
像蜜瓜苏打和复古的咖啡店,是否能够承载起这种情感的重压呢?
如果情感继续增加,旧有的情感被充斥整个市场,那么情感的价值是否会下跌?即使情感变得普通了,如果是限量版插图,是否依然会高价交易?
https://youtu.be/IjZPTKBx06k
这是我喜欢的广播,常常在睡觉时听着它。
无意中翻看了我写的日记,发现最近我给自己的鼓励格外多。试图通过整齐的文字和它们的力量来肯定自己,但每一次都遭遇挫折。满怀热情的呼喊,投出的球却常常落空,我开始觉得,自己给自己做的“补偿”实在是有些歪曲了。
你曾经在游泳池的底部慢慢吐出气息,凝视着外面因为折射而模糊的光线吗?你曾试过一点一点打破瓶子,观察它什么时候会崩塌吗?
你是否曾关掉房间的所有灯,等待眼睛适应黑暗,看看自己的房间在无光的情况下会显现出什么?
一切都非常美丽,但我却不愿给它们命名,也不愿将它们分成好坏。
这些感受比美更接近悲伤,但如果我大声哭出来,是否显得有些突兀呢?
夜晚,似乎能做些什么,但我的思维像潮水般溶解,才智不足,甚至提前退出了。
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2023年8月17日 01:30
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原文
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陽の光で目覚める朝は描画だと思う
偶発的に早起きできてしまったときになんで目が覚めちゃったのだろうかなどと思います。本質的には得をしているはずなのに、十分寝れなかったのではという不安が頭をよぎり早起きさえもポジティブに捉えられない自分に頭がさめざめしてしまう朝なのです、こんばんは、首からつま先まで暑いですね。
衆目に晒されるのも常に誰かと比較されるのもその対処として自信を担ぐことも、基礎代謝が増えるなと日々思います、あぐらをかいて祈っていてもカロリーは空から降ってこないし、外を歩けば病は風に乗って来るし、身体中の細胞は泡沫の日々を過ごすし、すべて光合成で賄えるなら良かったのですが。ほとほと人力で補おうと休日、喫茶店に行くなどすると時間の流れが体感と違うせいか、いてもたってもいられなくなるのです、心地良いはずの店内のラウドネス、やはり街道通り道、喧噪でしか満たされないラップセンス。
精神を安定させるために定期的に本屋に行くのですが、気になった本を数冊手に取って持って見て回っていて、その本屋さん独自のオススメコーナーに自分の頭の既読棚にある本が置いてあると嬉しくなる反面、それらのあらすじや感想が鮮明に出てこないとき、今から向き合うであろう本に目をやり、やはり自分にはもったいないのではないかと思ってしまう。それを振り切って本を買うにはエネルギーとほんの少しの自尊心が必要なのです。得手不得手といいますが、本を見るのは得手、本を買うのは不得手にあたります。
エモいは形としてありうるのでしょうか、あるとしたら固形物なのでしょうか。メロンソーダやレトロな喫茶店はその重圧に耐えきれるのでしょうか。もしこのままエモが増えていって、既出のエモであふれてしまったとしても、エモいの市場価値は下がらないのでしょうか、感情ガチャでエモがアンコモンになっても限定版イラストなら高値で取引されるのでしょうか。
匿名ラジオ/#221「今更でごめん!結局『エモい』って何なの!?」 - YouTube
あたしが好きなラジオです、よく寝るときに流しています。
ふと書いていた日記を読み返していたのですが、最近めっぽう自分への鼓舞が多いなと思います。紙面に文字を整えてその力で自己肯定を試みる道中で挫折して、精いっぱいの声援の投球、ワンバウンドの跡が散見されて、自己補完がすごく歪だなと思うのです。
息を少しずつ吐きだしてプールの底に沈んでいって、屈折でぼやけて見える外の光を眺めたことがありますか。つぼを少しずつ割っていって、どこをどこまで割ったら形が崩れ落ちるか試したことがありますか。部屋の明かりをゼロにして、暗闇に目が慣れたら自分の普段過ごす部屋に何が見えるか試してみたことがありますか。全てとても綺麗なのです、でもこれらに名前を付けられることも甲乙良否定められることもどうにかいたくいとうございます。これらは美よりも悲哀に近いのですが号哭は角立っているでしょうか。
何かできそうな夜更かし、脳内紹介お住まいツアー、思考は潮解、能才足らず当社比早退です。
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翻译
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我认为,在阳光下醒来的早晨就像是一幅画
每当我偶然早起时,我总会想,为什么自己会醒来呢?
虽然从本质上来说我应该是得到了好处,但却总担心自己没睡够,这种不安让我无法积极看待早起。
每当遇到这样的早晨,我都会感到有些沮丧。
晚上好,感觉从脖子到脚趾都很热呢。
暴露在公众的视线下,不断地与别人比较,还要自信地应对,我感觉自己的基础代谢每天都在增加。
即使盘腿坐着祈祷,也不会有卡路里从天而降;如果走出门,疾病也可能随风而来;身体每一个细胞都在度过如泡沫般的日子。
如果一切都能通过光合作用来维持,那该多好啊。
当我周末去一家咖啡店,试图通过人力来弥补这一切时,时间的流逝似乎与我的感受不同,让我变得坐立不安。
原本应该是舒适的店内,却被大声的噪音充斥。
街道的喧嚣,似乎只能用这种‘快节奏’的方式来满足我。
为了保持精神的平衡,我定期去书店。在那里,我会挑选几本自己感兴趣的书,拿着它们四处转悠。
每当我看到书店的推荐角落里,自己曾经读过的书摆在那里时,心中总会涌上一阵喜悦。但当我无法清晰回忆起这些书的情节和感想时,我又会开始犹豫:是不是这些书对我来说太奢侈了?
要克服这些犹豫,最终把书买下,我需要一点能量和一些自尊心。
所谓擅长和不擅长,我擅长看书,但不擅长买书。
那么,‘情感’(エモい)是能被形容为一种具体的形态吗?如果可以,它会是一种固体吗?
像蜜瓜苏打和复古的咖啡店,是否能够承载起这种情感的重压呢?
如果情感继续增加,旧有的情感被充斥整个市场,那么情感的价值是否会下跌?即使情感变得普通了,如果是限量版插图,是否依然会高价交易?
https://youtu.be/IjZPTKBx06k
这是我喜欢的广播,常常在睡觉时听着它。
无意中翻看了我写的日记,发现最近我给自己的鼓励格外多。试图通过整齐的文字和它们的力量来肯定自己,但每一次都遭遇挫折。满怀热情的呼喊,投出的球却常常落空,我开始觉得,自己给自己做的“补偿”实在是有些歪曲了。
你曾经在游泳池的底部慢慢吐出气息,凝视着外面因为折射而模糊的光线吗?你曾试过一点一点打破瓶子,观察它什么时候会崩塌吗?
你是否曾关掉房间的所有灯,等待眼睛适应黑暗,看看自己的房间在无光的情况下会显现出什么?
一切都非常美丽,但我却不愿给它们命名,也不愿将它们分成好坏。
这些感受比美更接近悲伤,但如果我大声哭出来,是否显得有些突兀呢?
夜晚,似乎能做些什么,但我的思维像潮水般溶解,才智不足,甚至提前退出了。
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3
2024年1月18日 21:17
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原文
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翻译
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巡り廻って辿り着いたが近くどこかで道に迷う
こんばんは、お久しぶりです、更新間隔がどうも1つの季節に1つの手紙を書いているほどですが、計らいでもなんでもなく少し立て込んでいました。
最近は陽が燦燦としていてもすっかりすぐに寒くなりきってしまいます、あきなんて存在しない気がしますね、書くことにも、東京にも。去年は随分とTシャツを買いすぎてしまいました、夏の準備は万端です。あのこもごもとした定まらない季節、爛漫で一場な春というやつが日々段々と訪れることを祈ります。
先日飛行機に久しぶりに乗ったのですが、乗るたびに、席に座る際コートを脱ぐべきか迷ったまま立ち止まって、通路の邪魔になってはいけないと自分の背中にこびりついたなにかに列から弾きだされた気がして、着たままに座ってしまいます。
飛行機の小窓は、自分の列のものを閉じても前から後ろからと光が隙間を縫い入ってきます。昔から乗り物は、動き出してしまうと身動きが取れないという恐れからか少し苦手で(プロゲーマーという職業ながら三半規管が弱いというそもそものあたしのキャラクリエイト時点でのステータス振りミスに寄るところもあります)、何か大きな、自分では決して御しきれない存在に身をゆだねているという感覚を遮るために必死に窓を下ろし瞼を閉じるのですが空しくも、自分と飛行機の接地面から伝わってくる振動とキャンセルしきれないエンジンの駆動音は、この塊が激しく息をしていてあわや生き物として存在していること、そして次に大きく息を吸った時こそ動き出すということを訴えかけてくるのです。
異界に赴く楽しみを雲のような掴み切れない不安で包み、蒸し、身体が斜めになり始めたうちにその包みを開けて、包みの中がさして変わっていないことを確認してから眠りを試みます。段々と線毛が白と青の電飾でライトアップされていき、大きく吸い込んだ数刻後への期待が薫る新鮮な空気は、線毛で華やいだ気管ストリートを通って肺へと飛び立ち全身を巡ります。が、突然ぶつんと、ああ、停電でしょうか。一度目を開け機内が明るいことを確認し、目を瞑ります。生きるために電力は賄われ身体を循環し続けなければいけませんが、なんだかずっと怏々としてしまうあたしは、電気を産み出し発生したエネルギーをためておける自信がないのです、それどころか強い抵抗でありたいはずが常に漏電してしまいたいのです。激しい耳鳴りの高揚感も万が一の緊急事態用の対応アナウンスが煽る不安も、毎秒肉体の座標が変化し続けているという二次元の自分から得られる生きている心地も非日常で飾られた色めく胸中も、それらすべては気を抜くと急に襲ってくる、自由に思えても自分は根底で常に何かに縛られているという、おおよそ漠然とした足の生えた不安ににじり寄られ、現実の受容を迫られ、続いて嫌気が顔を出す、のです。重たい瞼を少し上げるとやはり彼は前の列の窓から覗いている。前列の窓際の人は可哀想ですね。あたしが着ていたのは安いシュガーコートだったようで、外界の難しい酸いや甘いを分かりやすく翻訳していると思っていたものは身勝手な解釈そのものだったようです、bittersweetですね。悲喜こもごもという単語は英訳するとこうなるそうです。哀も歓も入る隙をうかがっています。
自分がどうも疲れていると思ったときにどうしようもないほどに無駄な時間を過ごせないか試みることがままあります。タオルを普段より1回分多く畳んでみたり味噌汁を普段の二倍の時間をかけて飲んでみたり、両手で運べば一度で済むリビングの往来を片手で二度に増やしてみたりなどすると、自分が生きていることを強く実感できるのです。自分が人の生涯や感情について語れるほど達観しているとは到底思えませんが、せめてなにかにしがみついて引っ張られて生きていけるように強い執着心が芽生えるような素敵な経験を積み重ねられたらなと暗中模索していた新年でした、今年もよろしくお願いします。
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“走了很远,终于走到了,却在附近迷失了方向。”
晚上好,好久不见。每次更新似乎总是在季节更替时写下,每个季节写一封信,似乎并非有意为之,只是最近忙碌了一些。
虽然最近阳光明媚,但很快就变得寒冷,仿佛秋天根本不存在一样。这种感觉不仅在季节中,也体现在写作和东京的生活中。去年我买了太多T恤,夏天的准备已经做得差不多。那种模糊不清的季节变化,繁华一时的春天渐渐接近,我在期待着它的到来。
前几天我久违地坐了飞机。每次坐下时,我总是犹豫着是否该脱下外套,站在座位旁不敢动,生怕会挡住通道。我觉得自己背后有某种不安的感觉,像是被从队列中排除,最终我还是穿着外套坐了下来。
即使关上自己这一排的小窗户,光线仍然会从前面和后面照进来。一直以来,我对交通工具有些恐惧,可能是因为一旦它们开始动,我就无法控制自己。尽管我是职业电竞选手,但由于平衡感不好,这在角色设定时就注定了我的“设定错误”。为了避免被某种庞大、无法掌控的力量吞噬,我拼命关闭窗户,闭上眼睛。然而,无力的振动和引擎轰鸣声不断提醒我,飞机这庞然大物在剧烈地呼吸,仿佛它是一个有生命的存在,而它下一次大口吸气时就会动起来。
将前往异界的喜悦,包裹在如云般难以抓住的忧虑中,蒸腾着。身体渐渐倾斜时,我打开了这层包裹,确认里面并没有太多变化,之后才试着入睡。
渐渐地,纤毛在白色和蓝色的电光下亮起,几刻后,空气中弥漫着深吸一口气所带来的清新气息,透过这些纤毛装饰的气管街道,飞入肺腔,最终流遍全身。
突然间,咔嗒一声,啊,是停电吗?我睁开眼确认机舱依旧明亮,再次闭上眼睛。为了生存,电力必须供应,身体需要继续运转。
然而,我总是感到沉闷,似乎没有信心去生产电力,也不能将它储存起来。而我本应以强大的抗拒力为己任,然而却总是希望自己能无意识地泄露能量。
那剧烈的耳鸣带来的兴奋感,还有紧急情况广播所引发的不安。每一秒,身体的坐标都在变化,从二次元自我中获得的生存感,以及那种装饰了非日常色彩的内心波动……所有这些感受,如果稍微放松警惕,它们便会不由分说地袭来,尽管表面上看似自由,但深藏内心的我始终被某种力量束缚着。
一种模糊不清的、不安的感觉悄然逼近,迫使自己接受现实,而随之而来的,是逐渐显现的厌倦感。当我微微抬起沉重的眼皮,果然他还是透过前排窗户向我投来目光。坐在前排窗边的人真是可怜。
我当时穿的似乎是一件便宜的糖果色外套,原本以为它能够清晰地翻译外界那些复杂的酸甜味,结果那不过是我自作主张的解读。真是bittersweet啊。‘悲喜交加’这个词,翻译成英文大概就成了这样吧。它在空隙中游走,努力找到一个可以容纳悲与喜的地方。
当我感到疲惫不堪时,往往会尝试度过一些无意义的时光,看看自己能否摆脱那种无法承受的沉重。比如,多折一次毛巾,或者花两倍的时间慢慢地喝完味噌汤,甚至是将用双手便能一次搬运的物品,故意用一只手分两次搬动。
通过这些看似微不足道的小事,我开始强烈地感受到自己还活着,感受到一种独特的存在感。这些小小的努力,仿佛是生活的呼吸,让我从无意义的疲倦中重新获得了活力。
虽然我并不认为自己已经达到了能够洞察他人一生或情感的境地,但我依然渴望能够找到一些值得紧紧抓住的东西,让自己能够在不确定中前行。如果能通过不断积累那些充满意义的经验,让自己有一种被生活推动的力量,那将是我新年里默默追寻的目标。
愿今年,能继续在这条充满探索的路上,找到属于自己的支撑点。也请在未来的日子里,继续与我同行。
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2024年1月18日 21:17
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原文
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巡り廻って辿り着いたが近くどこかで道に迷う
こんばんは、お久しぶりです、更新間隔がどうも1つの季節に1つの手紙を書いているほどですが、計らいでもなんでもなく少し立て込んでいました。
最近は陽が燦燦としていてもすっかりすぐに寒くなりきってしまいます、あきなんて存在しない気がしますね、書くことにも、東京にも。去年は随分とTシャツを買いすぎてしまいました、夏の準備は万端です。あのこもごもとした定まらない季節、爛漫で一場な春というやつが日々段々と訪れることを祈ります。
先日飛行機に久しぶりに乗ったのですが、乗るたびに、席に座る際コートを脱ぐべきか迷ったまま立ち止まって、通路の邪魔になってはいけないと自分の背中にこびりついたなにかに列から弾きだされた気がして、着たままに座ってしまいます。
飛行機の小窓は、自分の列のものを閉じても前から後ろからと光が隙間を縫い入ってきます。昔から乗り物は、動き出してしまうと身動きが取れないという恐れからか少し苦手で(プロゲーマーという職業ながら三半規管が弱いというそもそものあたしのキャラクリエイト時点でのステータス振りミスに寄るところもあります)、何か大きな、自分では決して御しきれない存在に身をゆだねているという感覚を遮るために必死に窓を下ろし瞼を閉じるのですが空しくも、自分と飛行機の接地面から伝わってくる振動とキャンセルしきれないエンジンの駆動音は、この塊が激しく息をしていてあわや生き物として存在していること、そして次に大きく息を吸った時こそ動き出すということを訴えかけてくるのです。
異界に赴く楽しみを雲のような掴み切れない不安で包み、蒸し、身体が斜めになり始めたうちにその包みを開けて、包みの中がさして変わっていないことを確認してから眠りを試みます。段々と線毛が白と青の電飾でライトアップされていき、大きく吸い込んだ数刻後への期待が薫る新鮮な空気は、線毛で華やいだ気管ストリートを通って肺へと飛び立ち全身を巡ります。が、突然ぶつんと、ああ、停電でしょうか。一度目を開け機内が明るいことを確認し、目を瞑ります。生きるために電力は賄われ身体を循環し続けなければいけませんが、なんだかずっと怏々としてしまうあたしは、電気を産み出し発生したエネルギーをためておける自信がないのです、それどころか強い抵抗でありたいはずが常に漏電してしまいたいのです。激しい耳鳴りの高揚感も万が一の緊急事態用の対応アナウンスが煽る不安も、毎秒肉体の座標が変化し続けているという二次元の自分から得られる生きている心地も非日常で飾られた色めく胸中も、それらすべては気を抜くと急に襲ってくる、自由に思えても自分は根底で常に何かに縛られているという、おおよそ漠然とした足の生えた不安ににじり寄られ、現実の受容を迫られ、続いて嫌気が顔を出す、のです。重たい瞼を少し上げるとやはり彼は前の列の窓から覗いている。前列の窓際の人は可哀想ですね。あたしが着ていたのは安いシュガーコートだったようで、外界の難しい酸いや甘いを分かりやすく翻訳していると思っていたものは身勝手な解釈そのものだったようです、bittersweetですね。悲喜こもごもという単語は英訳するとこうなるそうです。哀も歓も入る隙をうかがっています。
自分がどうも疲れていると思ったときにどうしようもないほどに無駄な時間を過ごせないか試みることがままあります。タオルを普段より1回分多く畳んでみたり味噌汁を普段の二倍の時間をかけて飲んでみたり、両手で運べば一度で済むリビングの往来を片手で二度に増やしてみたりなどすると、自分が生きていることを強く実感できるのです。自分が人の生涯や感情について語れるほど達観しているとは到底思えませんが、せめてなにかにしがみついて引っ張られて生きていけるように強い執着心が芽生えるような素敵な経験を積み重ねられたらなと暗中模索していた新年でした、今年もよろしくお願いします。
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翻译
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“走了很远,终于走到了,却在附近迷失了方向。”
晚上好,好久不见。每次更新似乎总是在季节更替时写下,每个季节写一封信,似乎并非有意为之,只是最近忙碌了一些。
虽然最近阳光明媚,但很快就变得寒冷,仿佛秋天根本不存在一样。这种感觉不仅在季节中,也体现在写作和东京的生活中。去年我买了太多T恤,夏天的准备已经做得差不多。那种模糊不清的季节变化,繁华一时的春天渐渐接近,我在期待着它的到来。
前几天我久违地坐了飞机。每次坐下时,我总是犹豫着是否该脱下外套,站在座位旁不敢动,生怕会挡住通道。我觉得自己背后有某种不安的感觉,像是被从队列中排除,最终我还是穿着外套坐了下来。
即使关上自己这一排的小窗户,光线仍然会从前面和后面照进来。一直以来,我对交通工具有些恐惧,可能是因为一旦它们开始动,我就无法控制自己。尽管我是职业电竞选手,但由于平衡感不好,这在角色设定时就注定了我的“设定错误”。为了避免被某种庞大、无法掌控的力量吞噬,我拼命关闭窗户,闭上眼睛。然而,无力的振动和引擎轰鸣声不断提醒我,飞机这庞然大物在剧烈地呼吸,仿佛它是一个有生命的存在,而它下一次大口吸气时就会动起来。
将前往异界的喜悦,包裹在如云般难以抓住的忧虑中,蒸腾着。身体渐渐倾斜时,我打开了这层包裹,确认里面并没有太多变化,之后才试着入睡。
渐渐地,纤毛在白色和蓝色的电光下亮起,几刻后,空气中弥漫着深吸一口气所带来的清新气息,透过这些纤毛装饰的气管街道,飞入肺腔,最终流遍全身。
突然间,咔嗒一声,啊,是停电吗?我睁开眼确认机舱依旧明亮,再次闭上眼睛。为了生存,电力必须供应,身体需要继续运转。
然而,我总是感到沉闷,似乎没有信心去生产电力,也不能将它储存起来。而我本应以强大的抗拒力为己任,然而却总是希望自己能无意识地泄露能量。
那剧烈的耳鸣带来的兴奋感,还有紧急情况广播所引发的不安。每一秒,身体的坐标都在变化,从二次元自我中获得的生存感,以及那种装饰了非日常色彩的内心波动……所有这些感受,如果稍微放松警惕,它们便会不由分说地袭来,尽管表面上看似自由,但深藏内心的我始终被某种力量束缚着。
一种模糊不清的、不安的感觉悄然逼近,迫使自己接受现实,而随之而来的,是逐渐显现的厌倦感。当我微微抬起沉重的眼皮,果然他还是透过前排窗户向我投来目光。坐在前排窗边的人真是可怜。
我当时穿的似乎是一件便宜的糖果色外套,原本以为它能够清晰地翻译外界那些复杂的酸甜味,结果那不过是我自作主张的解读。真是bittersweet啊。‘悲喜交加’这个词,翻译成英文大概就成了这样吧。它在空隙中游走,努力找到一个可以容纳悲与喜的地方。
当我感到疲惫不堪时,往往会尝试度过一些无意义的时光,看看自己能否摆脱那种无法承受的沉重。比如,多折一次毛巾,或者花两倍的时间慢慢地喝完味噌汤,甚至是将用双手便能一次搬运的物品,故意用一只手分两次搬动。
通过这些看似微不足道的小事,我开始强烈地感受到自己还活着,感受到一种独特的存在感。这些小小的努力,仿佛是生活的呼吸,让我从无意义的疲倦中重新获得了活力。
虽然我并不认为自己已经达到了能够洞察他人一生或情感的境地,但我依然渴望能够找到一些值得紧紧抓住的东西,让自己能够在不确定中前行。如果能通过不断积累那些充满意义的经验,让自己有一种被生活推动的力量,那将是我新年里默默追寻的目标。
愿今年,能继续在这条充满探索的路上,找到属于自己的支撑点。也请在未来的日子里,继续与我同行。
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4
2024年8月24日 00:58
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原文
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翻译
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夏は涸れ秋が滴る、暑中見舞いは自分に向けたい
意図的にそうしているわけではないのですが季節の苛烈さが落ち着きを取り戻し始めた頃にふと、したためている気がします。1限目は国語だと嬉しい季節から昼休み前4限目の体育がちょうどいい季節へ変わっていく気がしますね、お久しぶりですこんにちはこんばんは。この夏は少し落ち着いた文章です。
人生で一度は見ておきたいものがいくつかあり氷瀑などはその一つなのですが、惹かれている理由は言語化できないのです。もしエネルギーの源に近づきたい一心であれば翼はいつか凍ってしまうでしょうか、落ちる先にビスケットの家があり屋根がマシュマロであることを祈ります。
最近この見ておきたいものに新加入の冬の海。夏の海というのは夏の季語で冬の海というのは冬の季語で、どちらも俳句の露払いもしんがりも務めうる、それはそれは笑顔が似合う柔和な方々です。ですが最近ふと訪れた夏の海で感じた、夜の海は暗く黒く、ここに生命の躍動などはないような感じ。暖かい風と少し冷たい風が順々に訪れ太陽は隠れ涼しいはずがべたつく感覚、星よりも明るく動的な灯台の光、それでもきっと道しるべのない真っ暗な海、飲み込まれたら引き返せない感覚は恐ろしく心地よく、昼確かにそこにあったであろうエネルギーはどこへ行ってしまったのかと。
いつからか夏を燃やせるだけの燃料を心の中に持ち合わせていないので、春から夏は情熱だとか気力だとかのあるべき内側からの熱の足りない分を、
ときに友に与えられときにどこかからもぎ取ってきた新鮮な薪で日々補い、大切にその火を守る季節でした。てにをは☆プロメテウス☆未来館です。こうも鬱々と文句を垂れていますが最近の夏は比較的好きです。秋が恋しいように見えますが恋慕の情など欠片も見当たらず、毎年やけに暑いこの季節の一面に対する小さな反骨精神をクジェンガしているにすぎません。
生来人を描くのがかなり苦手で人の名前を覚えるのもやや不得手なのですが、魂の輪郭を掴むのが苦手なのかもしれません。顔の凹凸やパーツの位置はおろか、ほくろがあるかどうか、眼鏡をかけているかどうかも朧気で、性格や精神的特徴が見える情報となかなか一致しないのは日々自分のことで精一杯だからと言い訳を添えています。古代ギリシャでほくろがオリーブと言われ位置によってその意味を変えたという記憶の底でほんのり香る話の真偽を確かめる術がすぐに見当たらないのは、今の生活の少し悲しいところですね。
ふもとの村の太鼓と笛の音で釣られたい、腹を空かせて山を下りうす焦げた馥郁たる匂いの出所を木陰から見守りたい、突然の大雨に戸惑い帰る人々を見て心躍り洞穴に戻った後自分の寂しさに気づいて陰りたい、人はみな心の中にバケモノを飼っているとはこういうことでしょうね。祭りにも落語にも囃子があるのが羨ましい、どうも独り言が多くなってきました。
渦巻く希死念慮の波に合わせて、嫌いなものが多いなと感じます。雨の日の屋根付きの外階段も陽が照り付けるアスファルトの駐車場もストラックアウトも山芋のとろろも、助手席やセミダブルベッドや段ボールいっぱいのみかんのようにいつか克服できたらなと。スズメバチには一度刺されているのでリーチではあるのですが嫌いなものとは違います、汚れを吸ったスポンジもタンス裏の綿ぼこりも違うのです。
嫌なことを胃の中で壺に詰め入れてできた蟲毒に、日々あった楽しいことでできたビーズを香りが残っているうちに投げ入れています。この壺を浮かすのに水はちょうど良いのです、周りの力に任せて揺蕩い浮力に任せて力を抜くと身体は楽なのです。魂の輪郭も毒に耐えうる土器も心の中のバケモノも全て何かをこねて作っていて、これらを火にかけて形と成さねばならぬもののどうにも不格好で不定形で、日々朽ちないことを祈っています。せめていずれは自我が根を張り綺麗なクリスマスローズが咲きますように。
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夏天干涸,秋天滴落,暑期问候想要寄给自己。
虽然并非刻意为之,但当季节的严酷开始恢复平静时,我便会不经意地拿起笔来。就像从一开始令人愉悦的第一节语文课,到接下来那种适合的体育课一样,季节也在悄然变化。好久不见,你好,晚上好。这一夏,我的文字变得稍显平静。
在人生中,有些景象是我一定想亲眼见到的,冰瀑就是其中之一。虽然我无法用言语解释我为何如此着迷。但如果我只是因为想接近某种能量源泉而去追寻,难道我的翅膀最终也会被冰冻?我希望,当我跌落时,能看到一座由饼干做成的房子,屋顶是棉花糖。
最近,我的新愿望中加入了冬日的海洋。夏天的海是夏季的代表,而冬天的海则是冬季的象征,它们都能在俳句中作为开篇或结尾出现,分别是各自季节的标志性元素,宛如那些笑容可掬、温和的人们。然而,最近我偶然走访了夏天的海边,我感受到的却是:夜晚的海,黑暗且深邃,仿佛在这里并不存在生命的律动。暖风与微凉的风交替而来,太阳渐渐隐去,理应清爽的空气却带着黏腻的感觉。灯塔的光明比星光更加明亮而动感,它依然照亮着,但那片漆黑的海洋似乎没有任何路标,若被吞噬,便无法回头。这种感觉令人感到恐惧,却也异常舒适。白日里充满的能量,究竟去了哪里?
随着岁月流逝,不知何时起我早已不再拥有将整个夏天燃烧的燃料。从春天到夏天,我的内心不再充满应有的激情与动力,缺乏的部分只能偶尔从朋友那里获取,或者从某个地方偷来新鲜的薪火,日复一日地维持着那点微弱的火苗。那就是我的季节——‘てにをは☆普罗米修斯☆未来馆’。虽然我在这里愁眉苦脸地抱怨着,但其实最近我还挺喜欢这个夏天的。看似在怀念秋天,但并没有什么深切的思念,最多是对每年异常炎热的这个季节产生的一丝反叛情绪罢了。
我天生就不擅长描绘人,记住别人的名字也常常感到吃力,或许是因为我始终无法抓住灵魂的轮廓。面容的凹凸、五官的排列,甚至是否有痣、是否戴眼镜,这些细节都在我的记忆中模糊不清。而且,心理特征与外貌总是无法契合,我时常找借口说自己已经被生活琐事压得喘不过气,无法抽出心力去琢磨这些。
记得在古希腊,人们曾说痣像橄榄,根据其位置的不同,含义也各有不同。这段话在我记忆深处轻轻地飘荡,但无法立即验证它的真伪,这也许正是现在生活中的一丝惆怅与遗憾吧。
我想被村庄底下传来的鼓声和笛声吸引,饿着肚子下山,想从树荫下偷偷窥视那股淡淡焦香的味道源头。忽然一场大雨,让回家的人们迷茫无措,看到他们匆匆的身影,我的心情却莫名激动。回到洞穴里,却才意识到自己内心的孤独,想要躲避它。人们心中都藏着一个怪物,或许就是这样的情形吧。祭典和落语里总有锣鼓声相伴,这让我羡慕不已。最近,我自己也越来越喜欢喃喃自语了。
在内心的孤独和死意的浪潮中,我发现自己不喜欢的事物逐渐增多。比如下雨天屋檐下的外楼梯,阳光直射的柏油停车场,玩过的打击游戏,山药泥,甚至是副驾驶座、半双人床,或是满是橘子的纸箱……我希望有一天能克服这些。我曾被黄蜂蜇过,所以我对它有些恐惧,但这恐惧与不喜欢仍然有些不同。就像吸满脏污的海绵,或者是衣柜后堆积的棉絮,感觉也不同。
我把每天的不愉快像塞进壶里的毒药一样,慢慢积累。而那些由日常快乐汇聚而成的小珠子,我会趁着香气尚存,把它们投进壶里。这个壶如果放在水里正合适,随着周围的力量轻轻摇摆,借着浮力放松,身体也就轻松了。无论是我的灵魂轮廓,还是能够承受毒素的陶器,抑或是心中的怪物,所有这些都像是我在不停地捏制出来的。但无论怎么做,它们始终笨拙、不成形。我只能祈愿,它们能坚持下去,不会腐朽。至少,希望有一天,我的自我能够扎根,开出一朵美丽的圣诞玫瑰。
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2024年8月24日 00:58
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夏は涸れ秋が滴る、暑中見舞いは自分に向けたい
意図的にそうしているわけではないのですが季節の苛烈さが落ち着きを取り戻し始めた頃にふと、したためている気がします。1限目は国語だと嬉しい季節から昼休み前4限目の体育がちょうどいい季節へ変わっていく気がしますね、お久しぶりですこんにちはこんばんは。この夏は少し落ち着いた文章です。
人生で一度は見ておきたいものがいくつかあり氷瀑などはその一つなのですが、惹かれている理由は言語化できないのです。もしエネルギーの源に近づきたい一心であれば翼はいつか凍ってしまうでしょうか、落ちる先にビスケットの家があり屋根がマシュマロであることを祈ります。
最近この見ておきたいものに新加入の冬の海。夏の海というのは夏の季語で冬の海というのは冬の季語で、どちらも俳句の露払いもしんがりも務めうる、それはそれは笑顔が似合う柔和な方々です。ですが最近ふと訪れた夏の海で感じた、夜の海は暗く黒く、ここに生命の躍動などはないような感じ。暖かい風と少し冷たい風が順々に訪れ太陽は隠れ涼しいはずがべたつく感覚、星よりも明るく動的な灯台の光、それでもきっと道しるべのない真っ暗な海、飲み込まれたら引き返せない感覚は恐ろしく心地よく、昼確かにそこにあったであろうエネルギーはどこへ行ってしまったのかと。
いつからか夏を燃やせるだけの燃料を心の中に持ち合わせていないので、春から夏は情熱だとか気力だとかのあるべき内側からの熱の足りない分を、
ときに友に与えられときにどこかからもぎ取ってきた新鮮な薪で日々補い、大切にその火を守る季節でした。てにをは☆プロメテウス☆未来館です。こうも鬱々と文句を垂れていますが最近の夏は比較的好きです。秋が恋しいように見えますが恋慕の情など欠片も見当たらず、毎年やけに暑いこの季節の一面に対する小さな反骨精神をクジェンガしているにすぎません。
生来人を描くのがかなり苦手で人の名前を覚えるのもやや不得手なのですが、魂の輪郭を掴むのが苦手なのかもしれません。顔の凹凸やパーツの位置はおろか、ほくろがあるかどうか、眼鏡をかけているかどうかも朧気で、性格や精神的特徴が見える情報となかなか一致しないのは日々自分のことで精一杯だからと言い訳を添えています。古代ギリシャでほくろがオリーブと言われ位置によってその意味を変えたという記憶の底でほんのり香る話の真偽を確かめる術がすぐに見当たらないのは、今の生活の少し悲しいところですね。
ふもとの村の太鼓と笛の音で釣られたい、腹を空かせて山を下りうす焦げた馥郁たる匂いの出所を木陰から見守りたい、突然の大雨に戸惑い帰る人々を見て心躍り洞穴に戻った後自分の寂しさに気づいて陰りたい、人はみな心の中にバケモノを飼っているとはこういうことでしょうね。祭りにも落語にも囃子があるのが羨ましい、どうも独り言が多くなってきました。
渦巻く希死念慮の波に合わせて、嫌いなものが多いなと感じます。雨の日の屋根付きの外階段も陽が照り付けるアスファルトの駐車場もストラックアウトも山芋のとろろも、助手席やセミダブルベッドや段ボールいっぱいのみかんのようにいつか克服できたらなと。スズメバチには一度刺されているのでリーチではあるのですが嫌いなものとは違います、汚れを吸ったスポンジもタンス裏の綿ぼこりも違うのです。
嫌なことを胃の中で壺に詰め入れてできた蟲毒に、日々あった楽しいことでできたビーズを香りが残っているうちに投げ入れています。この壺を浮かすのに水はちょうど良いのです、周りの力に任せて揺蕩い浮力に任せて力を抜くと身体は楽なのです。魂の輪郭も毒に耐えうる土器も心の中のバケモノも全て何かをこねて作っていて、これらを火にかけて形と成さねばならぬもののどうにも不格好で不定形で、日々朽ちないことを祈っています。せめていずれは自我が根を張り綺麗なクリスマスローズが咲きますように。
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夏天干涸,秋天滴落,暑期问候想要寄给自己。
虽然并非刻意为之,但当季节的严酷开始恢复平静时,我便会不经意地拿起笔来。就像从一开始令人愉悦的第一节语文课,到接下来那种适合的体育课一样,季节也在悄然变化。好久不见,你好,晚上好。这一夏,我的文字变得稍显平静。
在人生中,有些景象是我一定想亲眼见到的,冰瀑就是其中之一。虽然我无法用言语解释我为何如此着迷。但如果我只是因为想接近某种能量源泉而去追寻,难道我的翅膀最终也会被冰冻?我希望,当我跌落时,能看到一座由饼干做成的房子,屋顶是棉花糖。
最近,我的新愿望中加入了冬日的海洋。夏天的海是夏季的代表,而冬天的海则是冬季的象征,它们都能在俳句中作为开篇或结尾出现,分别是各自季节的标志性元素,宛如那些笑容可掬、温和的人们。然而,最近我偶然走访了夏天的海边,我感受到的却是:夜晚的海,黑暗且深邃,仿佛在这里并不存在生命的律动。暖风与微凉的风交替而来,太阳渐渐隐去,理应清爽的空气却带着黏腻的感觉。灯塔的光明比星光更加明亮而动感,它依然照亮着,但那片漆黑的海洋似乎没有任何路标,若被吞噬,便无法回头。这种感觉令人感到恐惧,却也异常舒适。白日里充满的能量,究竟去了哪里?
随着岁月流逝,不知何时起我早已不再拥有将整个夏天燃烧的燃料。从春天到夏天,我的内心不再充满应有的激情与动力,缺乏的部分只能偶尔从朋友那里获取,或者从某个地方偷来新鲜的薪火,日复一日地维持着那点微弱的火苗。那就是我的季节——‘てにをは☆普罗米修斯☆未来馆’。虽然我在这里愁眉苦脸地抱怨着,但其实最近我还挺喜欢这个夏天的。看似在怀念秋天,但并没有什么深切的思念,最多是对每年异常炎热的这个季节产生的一丝反叛情绪罢了。
我天生就不擅长描绘人,记住别人的名字也常常感到吃力,或许是因为我始终无法抓住灵魂的轮廓。面容的凹凸、五官的排列,甚至是否有痣、是否戴眼镜,这些细节都在我的记忆中模糊不清。而且,心理特征与外貌总是无法契合,我时常找借口说自己已经被生活琐事压得喘不过气,无法抽出心力去琢磨这些。
记得在古希腊,人们曾说痣像橄榄,根据其位置的不同,含义也各有不同。这段话在我记忆深处轻轻地飘荡,但无法立即验证它的真伪,这也许正是现在生活中的一丝惆怅与遗憾吧。
我想被村庄底下传来的鼓声和笛声吸引,饿着肚子下山,想从树荫下偷偷窥视那股淡淡焦香的味道源头。忽然一场大雨,让回家的人们迷茫无措,看到他们匆匆的身影,我的心情却莫名激动。回到洞穴里,却才意识到自己内心的孤独,想要躲避它。人们心中都藏着一个怪物,或许就是这样的情形吧。祭典和落语里总有锣鼓声相伴,这让我羡慕不已。最近,我自己也越来越喜欢喃喃自语了。
在内心的孤独和死意的浪潮中,我发现自己不喜欢的事物逐渐增多。比如下雨天屋檐下的外楼梯,阳光直射的柏油停车场,玩过的打击游戏,山药泥,甚至是副驾驶座、半双人床,或是满是橘子的纸箱……我希望有一天能克服这些。我曾被黄蜂蜇过,所以我对它有些恐惧,但这恐惧与不喜欢仍然有些不同。就像吸满脏污的海绵,或者是衣柜后堆积的棉絮,感觉也不同。
我把每天的不愉快像塞进壶里的毒药一样,慢慢积累。而那些由日常快乐汇聚而成的小珠子,我会趁着香气尚存,把它们投进壶里。这个壶如果放在水里正合适,随着周围的力量轻轻摇摆,借着浮力放松,身体也就轻松了。无论是我的灵魂轮廓,还是能够承受毒素的陶器,抑或是心中的怪物,所有这些都像是我在不停地捏制出来的。但无论怎么做,它们始终笨拙、不成形。我只能祈愿,它们能坚持下去,不会腐朽。至少,希望有一天,我的自我能够扎根,开出一朵美丽的圣诞玫瑰。
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